「きみの水音、透明で」中野ハルヒの1200字物語

UnsplashのVida Huangが撮影


   『きみの水音、透明で』  中野ハルヒの1200字物語

暑熱のおさまりかけた夕暮れ。彼女が浴衣の襟元をゆるく合わせながら、うちの軒先を見上げた。

「・・・なあに、あれ?」

視線の先には、小さな丸いガラス容器がぶら下がっている。ガラスは中空で、夕暮れの熱を静かに吸い取っていた。

僕はごろんと寝そべったまま、しずかに暮れてゆく空を見ていた。空の上には、一番星の先駆けみたいな金魚玉が浮かんでいる

「それ、金魚玉っていうんだ」

「・・・へえ?」

「昔さ、金魚をもらって帰る時、あのガラス球に水と金魚を入れて、ぶら下げて帰ってきたんだって」

「すごい。その時のこと、覚えてる?」

「まさか。うちのばあちゃんの時代だよ」

なあんだ、といって、彼女はまた細いうなじを傾けて金魚玉を覗き込む。

「いまは、空っぽなのね」

「ああ」

「水を、入れてみてもいい?」

彼女は少しおっくうそうに立ち上がり、小さなキッチンで水音を立てた。

その音が、ついさっきの彼女を思い出させる。

ぼくは、彼女の音が好きだ。

彼女の匂いが、彼女の声が、彼女の体温が好きだ。

 

なのにどうして、あの一言が言えないんだろう。

『結婚しよう』

たったの6音。その音が僕の口から出るだけで、ふたりとも幸せになれるのに。

なにかが僕の咽喉に引っかかり、言葉を体内に押し戻してしまう。

 

夏の夕暮れ。

外の炎熱は、ゆっくりとおさまっていく。

彼女の熱も、いつかおさまってしまうのだろうか。

僕を置いて家をでた母が、結局、僕を迎えに来なかったように。

約束のない恋みたいな待ちぼうけを、ずっと感じてきたから、僕は言えないんだろうか。

だとしたら、それは僕の責任じゃない。僕を置いて行った母のせいだ。

 

彼女の小さな足が、畳を踏みながら僕の横を通り過ぎてゆく。

「ぶら下げておくね、金魚玉を」

薄眼を開けると、彼女が伸びをしながら軒先に金魚玉をつるしているのが見えた。

指輪のない空っぽの指先にガラスの金魚玉。吊るされた金魚玉は、夜の青みを帯びてきた空にくっきりと浮かび上がった。

水が、はいっている。

ゆるやかに動く水が、金魚玉に入っている。

水は透明なガラスに添って静かに満ち、静かに動く。まるで呼吸している生き物のようだ。

僕はゆっくり目を閉じる。

ああ。そうか。そうなんだ。

あの金魚玉は空っぽに見えて、空っぽじゃない。

もうすでに、呼吸音をたずさえているんだ。

彼女はもう、気づいているんだろうか。自分の中の小さな呼吸音に。小さな心音に。

その音の責任は、僕も持っていいんだろうか。かつて母が、一瞬でも僕に対して『愛情』という名の責任をもったように。

 

夕暮れが、ふかくなってゆく。

夜のはじめ、ゆるりとうごく金魚玉はやがて羊水のように満ちて、僕の咽喉から音を押し出す。

「……あのさ。ひょっとしてきみ、『金魚玉』になってるの?」

彼女が振りかえる。

にこりと笑った。僕はまた、ごろんと寝そべる。

「そうか」

静かに時間を数える。

8月……9月……10月……。

僕たちの金魚玉が満ちてくるのは、次の春みたいだ。

 

あの6音が、喉元を駆け上がってくる気配がした。僕は口を開く。

僕たちの金魚玉をむかえるために。

「あのさ……僕たち、けっこん……」

とくん、と金魚玉の水が、鳴った。

【了】

「夕暮れにうなじ傾け金魚玉」ハルヒ

(ゆふぐれにうなじかたむけきんぎょだま)